監督 エヴァ・ユッソン
製作 エリザベス・カールセン、スティーブン・ウーリー『キャロル』
出演 オデッサ・ヤング、ジョシュ・オコナー、コリン・ファース、オリヴィア・コールマン
1924年、初夏のように暖かな 3 月。その日はイギリス中のメイドが年に一度の里帰りを許される〈母の日〉。けれどニヴン家で働く孤児院育ちのジェーンに帰る家はなかった。そんな彼女のもとへ、秘密の関係を続ける隣家の跡継ぎのポールから、無人の邸への誘いが舞い込む。幼馴染のエマとの結婚式を控えるポールは、前祝いの昼食会への遅刻を決め込み、邸の寝室でジェーンと抱き合う。やがてポールは昼食会へと向かい、ジェーンは広大な無人の邸を一糸まとわぬ姿で探索する。だが 、ニヴン家に戻ったジェーンを、思わぬ知らせが待っていた。今、小説家 になったジェーンは振り返る。彼女の人生を永遠に変えた1日のことを──。
暗転、喪失、傷心、悲嘆、諦念...。1924年、第一次世界大戦休戦から 5 年あまりが経った頃、英国上流階級の人々が感じたであろう失意の観念を。一方、メイドである労働者階級のジェーンは、飛躍と解放の風を受けながら人生のペダルを漕ぎ始めていた…。
何度も観かえしたい。その度に新たな発見がある映画は稀だろう。英国郊外の田園風景、趣味の良い家具調度品、美しい蔵書、美術品が収められた屋敷、登場人物が纏う衣装の質感、典雅な弦楽奏の調べを聴きつつ、甘い官能の裏で巻き起こっていた衝撃的出来事...。時代や場所を自由に往還しつつ、シャープな切れ味で展開する編集と脚本の妙に唸るのは初見時である。観客は甘やかな想い出と現実の間(あわい)を夢のように交錯する。
2回目からは短いショットに込められた意味、監督・脚本家の主訴を深追いしたくなる。失われゆく層と台頭する側の階級闘争?フェミニズムの勃興?成長物語?歴史ドラマ?人生の哀感?それとも男女の愛情の機微か?社会派としてもラブストーリーにしても、幾重の視点からも極めて完成度の高い作品である。既に名作の香りが漂う。
原作はグレアム・スウィフトの「マザリング・サンデー」。‘49年生まれのスウィフトが、なぜ‘24年の濃厚な英国の空気を描き得たのか?男にも関わらず、女主人公ジェーンの心情に寄り添えたのは?英国小説にありがちな男視点からの抵抗感、違和感がなかった原作の美質を、映画化でも踏襲できていたのが嬉しい。
メイドが年に1日だけ里帰りを許された日曜日。帰る家のないジェーンは、禁断の恋の相手に招かれ、初めて正門から足を踏み入れる屋敷で官能に満ちた時を過ごす。運命は‘24年3月30日を、ジェーンにとって最高の悦楽と最大の悲しみが訪れる日に変えてしまう。光と影のコントラストは、ジェーンのその後の人生を一変させるのだ。こんなドラマティックな展開を創造したスウィフト、忠実に再現した監督のエヴァ・ユッソンに敬意を表したい。
メイドが隣邸を全裸で歩き回るシーンは、2016年の出版だからこそ許された描写だろう。戦前であれば、保守層が反発し物議を醸したに違いない。屋敷の跡継ぎである恋人の部屋を出て、肖像画を眺めながら螺旋階段を降りるジェーン。裸足で踏む絨毯の感触、素肌に差す強い春の日差し、内腿には先程まで体内にあった男の熱い精液が滴り落ちる。秘め事の後に、自分1人で味わう密やかで淫靡で贅沢な時間。ジェーンの鼓動まで聞こえてきそうな静寂の中、思わず観客も息を凝らす。
パイにかぶり付き、瓶ビールで流し込む。書斎では蔵書を慈しむように手に取り、読み耽る。こんな甘美且つ解放感溢れる場面をものしたのは、ジェーンが憑依したようなオデッサ・ヤングの功績が大きい。中盤までほぼ全裸の演技にも関わらず、恋人ポールへの態度と同様、臆することがなく伸びやかで美しい。光り輝くジェーンを描き切っているからこそ、後半との対比が鮮やかに浮き彫られるのだ。
ポール役のジョシュ・オコナーの繊細・優美な演技も忘れ難い。ジェーンの靴や脚を愛おしむよう、丁寧に脱がせる手つきに優しさが滲む。
「事象を見て言葉にするんだ。君ならできる」
ジェーンの書きたい衝動をポールは(愛した男たちは)見抜いていたのだ。ジェーンは‘24年3月30日を生涯かけて手繰り寄せることになる。
時折ハイスピードカメラで舐めるように描かれる上流階級である3家族の暮らし。野外テントでのランチ、豪華なディナー。傍らに控え立つ執事(歳若いからフットマンか?)。うっとりするほど細部のディテールに凝った意匠と衣装に見蕩れる。『女王陛下のお気に入り』でも衣装を担当し、オスカーを3度受賞しているサンディ・パウエルの仕事は本作でも素晴らしい。3家族が纏うアッパーミドルな中高年の装いから、ジェーンら労働者階級の実用的な服の下に身に着ける下着まで、質感の本物さ加減に目が惹きつけられる。
中でも、ジェーンが仕えるニヴン家の主人役コリン・ファースの佇まい、メイドへの紳士的な接し方、妻のオリヴィア・コールマンを慈愛深く包容する造形ぶりは圧巻だ。本作に気品と香気を与え、原作よりも肉付けされたある人物像として息を吹き込んでいる。
TVドラマ「ダウントン・アビー」の優美さ、イアン・マキューアン原作「贖罪」を映画化した『つぐない』、『ベロニカとの記憶』のシャープな展開に惹かれた人なら、お気に召すに違いない名編である。
(大瀧幸恵)
2021年/イギリス/104分/英語/カラー/5.1ch/R-15
後援:ブリティッシュ・カウンシル
配給:松竹
© CHANNEL FOUR TELEVISION CORPORATION, THE BRITISH FILM INSTITUTE AND NUMBER 9 FILMS SUNDAY LIMITED 2021
公式サイト:https://movies.shochiku.co.jp/sunday/
★2022年5月27日(金)より、新宿ピカデリー、ヒューマントラストシネマ有楽町、シネ・リーブル池袋ほかにて全国公開
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