魂のまなざし (原題:HELENE)

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監督:アンティ・ヨキネン
出演:ラウラ・ビルン ヨハンネス・ホロパイネン クリスタ・コソネン エーロ・アホ ピルッコ・サイシオ ヤルッコ・ラフティ

1915年、画家ヘレン・シャルフベック(ラウラ・ビルン)は、 高齢の母親と共に田舎で暮らしていた。情熱の赴くままに描き続けた彼女の作品159点が、あるとき画商の目に留まり、大規模な個展が開催されることになる。そして画商に紹介された19歳年下の青年エイナル・ロイターとの出会いによって、ヘレンの人生は転換期を迎える。

ヘレン・シャルフベックが18歳でフィンランド政府の旅行許可と奨学金を得てパリに渡ったのは、1880年、まだ19世紀である。ロシア帝国の支配下にあったフィンランドに於いて、この時代の女流画家としては、自身の天分もさることながら、恵まれた処遇にあったと言えるだろう。パリで写実主義を学び、夏はブルターニュ地方、イギリス、ジェノバ、フィレンツェ、ローマ、ミラノ、トリノ、ウィーンを旅しながら創作活動に励んだ。国際的な評価も得られ、20歳代のヘレンは前途洋洋、未来は大きな世界へと開かれていたはずだ。

83年の生涯のうち、50歳代の数年を描く本作は、悲しみに覆われている。恋の真っ最中であっても、なぜか不幸の予兆を感じさせる。本作を重奏低音のように彩るバッハ(マルチェッロのオーボエ協奏曲による)BWV974 第二楽章アダージョ。繰り返されるピアノ曲が、哀切に満ちた旋律と硬質なフィンランド語に溶け合い、ヘレンの実らなかった愛を雄弁に語るようだ。

監督のアンティ・ヨキネンがスクリーンに映し出したフィンランドの風景は、例えようもないほど美しい。白雪、夏の陽光、秋は木洩れ日、草花木果の春。それぞれの季節に彩られたヒュヴィンカーの家が点描のように描かれる冒頭から息をのむ。病弱なヘレンが母と共にヘルシンキから移り住んだ田舎家だ。朽ち果てた質素な造りの室内に、北欧特有の柔らかな光線が射し込む。透明な光芒と澄み切った大気が流れてくる。

荒れ放題のアトリエは、ヘレンの創造の源である。ヘレンは独白する。
「着想は内側、外側、同時に沸き起こる」
訪れた画商と、ヘレンの熱烈な信奉者だと称す青年の手引きにより開かれた大規模個展でも、ヘレンは神経質に光線の加減を調整する。
「馴染んでない。特にこの光ではね。徹夜すれば明日の開催までに修正できるわ」
画家としての強い意思と拘りを感じさせる場面である。

この時、光の調整を手伝った信奉者の青年が、ヘレンに”運命”を齎す。19歳年下の青年に誘われ、フィンランド南西部にある海辺の街タンミサーリで過ごした8月。僅か2週間の想い出が、ヘレンの一生を決定付けるのだ。アマチュア画家である青年と並んで描く丘からは、大海原と薄い雲、真っ青な空が臨む。アポロンのような裸体を晒し泳ぐ青年に、ヘレンは創造力を掻き立てられる。
「あなたを描かせて。船乗りがいいわ」

パノラマ窓から海を一望する別荘の部屋で、船乗りの絵を仕上げるヘレン。油絵具を削るシャープな音が響く。
「こちらを見つめないで。ポーズをとって動かないように」
「6時間もこうしてるのに?」
「あと10時間よ。うふふ、あなたもナイフで削ってみる?」
青年の手を後ろからそっと握り、キャンバスへ導くヘレン。男の匂いを間近に感じ、恍惚と戸惑いを見せる乙女のような表情が絶品だ。

扮するラウラ・ビルンは、フィンランドを代表する国際的女優。6か月間に渡り、フィンランドの著名な女流画家に教えを乞い、配色や絵の具の重ね方など実践的に学んだだけあって、対象を見つめる鋭い瞳は画家のそれである。ヘレンの文献も読み漁り、全身全霊をもって役に挑んでいる。ヘレンが憑依したかのような身体性に、観客はこれ以上ない純度の結晶化を観るのだ。

しかし、2週間の余韻はヘレンの狂おしい程の愛情が立ち昇る熱量を放射してしまう。起き上がることさえ困難となったヘレンの姿に、観客は胸を突かれ、涙を流すだろう。同居する母は、力になるどころか、冷酷な視線を娘に向け、毒を吐く。兄に作品の収益を与え、「そういうものよ」と口を開けば女性差別発言。今や男女平等ランキング世界一位のフィンランドでも、20世紀初頭は家父長制権威主義がはびこる保守的な世界だったのだ。
「売れた手数料は家族で分けるんだよ」
「嫌よ!描いたのは私。兄さんじゃない」
「女の物は男の物。そんなこと言ってると世間体悪いよ」
「今に世間が追いつくわ」
母と娘の相剋極まる会話は、フィンランドの今を知る者には衝撃だ。

室内の光源はランプだけ。間接照明が照らし出す空間には、張り詰めた緊迫感を醸す場面にも慈しみが灯る。ヨキネン監督が構築した世界の中で、ヘレンは自我を取り戻し、息づいて行く。優れた創作の力が実在の人物に力を与え、21世紀に蘇ったのだ。エンディングが終わっても、直ぐに観返したくなる余韻は稀有な体験であろう。いつまでも何処にいても手許に置いておきたい掌のような名編だ。
(大瀧幸恵)


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2020年/フィンランド・エストニア/122分/©Finland http://helene.onlyhearts.co.jp/
配給:オンリー・ハーツ
後援:フィンランド大使館
応援:求龍堂
公式サイト:http://helene.onlyhearts.co.jp/h
★2022年7月15日(金)より、Bunkamuraル・シネマ他にて順次公開


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