監督・脚本:ミア・ハンセン=ラブ
撮影:ドゥニ・ルノワール 美術:ミラ・プレリ
出演:レア・セドゥ、パスカル・グレゴリー、メルヴィル・プポー、ニコール・ガルシア、カミーユ・ルバン・マルタン
サンドラ(レア・セドゥ)は、パリの小さなアパートで8歳の娘リンと二人暮らしをしながら、通訳者として働いている。父のゲオルグ(パスカル・グレゴリー)は哲学の教師だったが、病で視力と記憶を失いつつあり、サンドラは別居する母フランソワーズと共に父のもとをたびたび訪ねては介護にあたっていた。育児、介護、仕事で息をつく暇もないサンドラだが、旧友のクレマン(メルヴィル・プポー)と偶然再会し、彼と恋仲になる。彼女は恋にときめく一方で、病を患う父に対するやるせない思いを募らせる。
縦列駐車の車が並んだ細い路地、アパルトマンの中庭を歩く女、緑豊かな公園、サクレクール寺院、 エッフェル塔、モンパルナス⋯。何気ないパリの日常風景を、名カメラマンのドゥニ・ルノアールがフィルム撮影で優しく包む。35ミリフィルムによる撮影に拘ったミア・ハンセン=ラブ監督の意を見事に可視化している。パリの乾いた空気、青い空、新鮮な緑には、艶めかしいフィルムの自然光撮影がよく似合う。
娘と父親との関係性を凝縮した時間に切り取った本作は、ミア・ハンセン=ラブ監督作の中でも2本目で完成されたスタイルが見事だった『あの夏の子供たち』を想起させる。運命の転換点を迎えた父と娘たちの忘れ得ぬひと夏の体験を描いていた。
本作は、父を看取ったラブ監督の実体験が基になっているという。
人物造形の細やかさと深度がラブ監督らしい。哲学教師として多くの教え子から尊敬と敬愛を受けていた父。膨大な蔵書に囲まれたアパルトマンに住んでいた父。人一倍、知性に溢れていた父の心と脳が壊れてしまう⋯。その目はもう娘や世界の事象を知覚することはできない。
神経変性疾患。不治の病であり、視神経の疾患を伴うため、視覚情報処理が全て欠落してしまうのだ。父にとって何より大切だった読書の機会を奪う病。
冒頭、娘は父の家のドアを開けることを躊躇う。なかなか姿を現さない父。2人の関係性が困難な道になるであろうことを予想させる巧みな導入部だ。
父は自身の症状を冷静に自覚している。乱れた文字で脈絡なく紡がれた父の日記を読む娘が切ない。
「度を超えた物忘れ。消える物体。希少疾患を歩く。詩。変性。退化、劣化の道を歩く。身体の囚人。 馬鹿げた心理テスト。視覚異常 腰椎剥離 後部皮質萎縮症 ベンソン症候群 アルツハイマーではない神経変性疾患」
病が進行して行く不安や恐怖が綴られている。そう、難病患者が闘うのは痛みや苦しみだけではない。"恐怖"との闘いなのだ。
娘はレア・セドゥ。プラダやヴィトンのモデルを務め、ボンドガールとしてゴージャスなドレスを着こなす美人女優が、すっぴんを晒し、ノンブランドの服を纏い、リュックを背負ってパリの街を歩き回る。頻繁に父を見舞い、シングルマザーとして幼い娘の世話に明け暮れながら、通訳の仕事をこなす。
何ら飾り気のない姿は、サンドラという女が目の前に存在しているかのような実体性を放つ。
父の蔵書を引き取ってくれた教え子の家で、感謝を示しながらサンドラは呟く。
「本人よりも本を見てるほうがパパらしいわ。肉体と魂の違いよ。本から人間性が見える。本を合わせるとパパの肖像画になるの。 分かる?」
父に扮するのは、パスカル・グレゴリー。『海辺のポーリーヌ』など、一連のエリック・ロメール監督作を彩ってきたイケメンが、視線の定まらない空洞のような目で老いと病の恐怖に震え、背中を丸めた老人を現出するとは!パスカル・グレゴリーはラブ監督の父に驚くほど似ていたそうだ。
本作は二つの物語が共存しつつ進む。夫を亡くして5年経ったサンドラが、再会した宇宙科学者クレマンとの関係だ。クレマンには妻子がある。熱く愛し合いながらも、2人は互いの苦しみをぶつけ合う。
ラブ監督は語る。
「いかにも人間らしいですね。妻を一夜にして捨てられないし、サンドラに会うのをやめられるほど強くもない。不安定な関係でも、共にいることでサンドラとクレマンは大きな幸せを感じている。でも父親とのことでは、苦しみしかない」
人間味に溢れた魅力的なクレマンを演じるのはメルヴィル・プポー。監督は以前からメルヴィル・プポーの大ファンで、本作での協業を本当に喜んでいたそうだ。確かに、プポーでなければ、単なる身勝手な男に映っていたかもしれない。滲み出る知性と優しさ。サンドラへの情愛には嘘がない。
十数年前に来日した際、英語が上手いしイケメンだから、もっとハリウッド映画に出ては?との問いに、
「話は色々あるんだけど、商業主義過ぎて自分には合わない。小さなチームで家族のように撮影するフランス映画が僕は好きなんだ」
と語っていた。野心や功名心よりも、自分らしくあろうとするプポーに似つかわしい発言だ。
次々と発生する課題と向き合うヒロイン。ラブ監督が提示する主題は明確だ。エモーショナルな場面が続く。戸惑い傷つき、心を整理して行く過程を細やかに描いた本作は、多くの観客の共感を集めるに違いない。
(大瀧幸恵)
2022 年/フランス/112 分/カラー/ビスタ/5.1ch/R15+
配給:アンプラグド
公式サイト:https://unpfilm.com/soredemo
★2023年5月5日(金・祝)より、新宿武蔵野館、シネスイッチ銀座ほか全国順次公開
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